椅子のこと調べてみよう 4

2019.1.25

カレーショップのカウンターに並んでいる椅子。
その中でもとりわけユニークな形の椅子があります。

 

 

「ペリアンチェア」(1955年)

 

写真を見ると分かるのですが、ネジは一切使われていなくて、一枚の成形合板に切り込みを入れ、折り曲げたシンプルな椅子です。

 

 

 

戦前から活躍した女性建築家、デザイナー

 

椅子をデザインしたのは、シャルロット・ぺリアン。
1903年、フランスのパリ生まれ。戦前からフランスの建築業界で活躍した女性の1人です。

ぺリアンは6年間パリの装飾美術中央連合学校(エコールUCAD)で学んだ後、自らアトリエを構え、数々の展覧会に家具を出品。1927年サロン・ドートンヌに出展した「屋根裏のバー」が大反響を巻き起こします。これがきっかけとなり、近代建築の三大巨匠の一人、ル・コルビュジエのアトリエへ入所(37年3月まで)。インテリア・デザインを任され、男性が気に留めないような細部まで追求することでモダニズムを充実させました。

また、ペリアンは最初の「キッチン=バー[カウンター式キッチン]」を考案するなど、女性の日常生活の改善に向けて独自の方法を生み出しています。フランス、日本とも1945年まで女性に選挙権はありませんでした。女性が銀行口座を開設するのに夫の同意を必要としなくなるのは、1960年代だそうです。

日本でいうと昭和初期。なぜ、そんな時代にペリアンは活躍できたのか。私の祖母は1915(大正4)年生まれで、ぺリアンよりも後に生まれていますが、当時の時代背景を考えてみても男性と肩を並べて働くなんてとても想像できません。

 

 

山から学んだ男女平等の精神

 

本に興味深いことが書いてありました。

 

男女の平等はペリアンにとってごく当たり前のことだった。ペリアンの母は自立したすぐれた女性でペリアンのお手本になったであろう。しかしその他にも、ペリアンが男性と平等の関係を築く上で決定的な役割を果たした要素がある。スポーツの実践である。ペリアンはきわめて活発で、男性にまじって登山や洞窟探検、ハイキング、カヤックをしていた。

高峰に立ち向かう困難な登山では、参加者たちの性別の区別はなくなり、みな対等になる。彼女は言う。「私は山を深く愛しています。何かを乗り越えることの可能性という人間に必要なものを、山が差し出してくれるからです。山に入ると、チームプレーの精神が高まります。山にごまかしはききません。山に打ち勝つには、忍耐力の試練が必要です。予測されるリスクに立ち向かうことができます」。(「シャルロット・ペリアンと日本」より)

 

ペリアンは男女の平等だけでなく、仕事におけるチームプレーの精神も山から学んでいたようです。

 

 

日本とのつながり

 

1940年、かつてル・コルビュジエのアトリエで同僚だった建築家・坂倉準三の推薦により、商工省(通商産業省)の「工芸指導顧問」として日本へ向かい、海外向けの工芸品の改良・指導を任されます(42年12月まで滞在)。

「民藝」運動の推進者である柳宗悦や河井寬次郎らと交流したペリアンは、東北、北陸、山陰、京都、奈良など全国各地を視察し、日本の住環境や日常使用している什器などを熱心に研究したそうです。視察にはフランス語を勉強していた柳宗理が同行しました。

柳宗理が出てきたところで、個人的に親近感がわいてきました。我が家にあるミルクパンは柳宗理デザインのもの。このミルクパンが優れものなのです。お湯が沸くのも早いし、注ぎ口が独特の形でまったくこぼれません。蓋をクルっとずらすと、野菜などの湯切りもできます。使うたびにニンマリしてしまうお気に入りの一つ。

ペリアンの視察に同行したとき、柳宗理は東京美術学校を卒業したばかりの25歳。若き柳宗理は、伝統と創造の相関関係、デザインに対する姿勢などペリアンから大きな影響を受けたそうです。それがあって、使いやすくて美しいデザインの調理器具が生まれたんだなと思うと…「ペリアン女史、ありがとう!」と伝えたい。ペリアンの活動は、柳宗理のみならず、戦後のデザイン界に強い影響を与え、日本のモダンデザイン形成のきっかけとなりました。

 

 

日本の伝統的住居を深く理解

 

日本に滞在していたときのペリアンの様子が紹介されています。

 

こうしてペリアンは、実際に物を見、体験することで伝統的な日本の美を理解していったのであるが、その眼は同時に農村や漁村で働く女性や子供に向けられていた。彼女はどこへ行ってもざっくばらんに人々に接し、庶民の生活の隅々にまで関心を寄せた。畳の部屋で皆と膝をつき合わせながら日本食を食べ、布団で眠り、スキーを楽しみ、温泉に入った。(「クラシック・モダン」より)

 

ペリアンが日本に来て、最も関心を示したものの一つが「畳」だったそうです。畳の規格は、武家社会とともに室町時代から江戸時代にかけて定着し、日本家屋における「標準規格」となり、障子や襖、間口の広さまで決定する基準になっていること。また、畳や障子、柱など既製品として日本全土で作られ、組立式で職人に頼めばいつでもどこでも設置や交換が可能であること。戦後、ペリアンは日本で得た知識や体験を生かした数多くの作品を生み出し、多くの建築家やデザイナーに影響を与える存在となっていくのです。

 

 

優しく受け止めてくれる椅子

 

さて、ようやくペリアンチェアの紹介です。

ペリアンは1955年に再び来日し、「芸術の綜合への提案―ル・コルビュジエ、レジェ、ペリアン 3人展」を東京・高島屋にて開催します。そこで「ペリアンチェア」を発表します。当時は黒色で、「オンブル(影)」という名で発表されました。この椅子の着想は、日本の伝統芸能、文楽で人形を操っている黒子の姿から。スタッキング(積み重ね)ができるようにデザインされています。東京の三好木工が製作しましたが、当時は量産技術がなく商品化には至りませんでした。その後、96年に天童木工が復刻しています。ペリアンは1999年、96歳で天寿をまっとうしました。

12月の寒い日、ペリアンチェアに座ってカレーを食べました。
高くはない背もたれですが、腰にぴったりフィットして長時間でも座っていられる感じ。
すーっと丸ごと受け止めてくれるような優しい椅子でした。

 

 

おまけ(折り紙篇)

 

ペリアンチェアを上から見るたびに、折り紙と切り取り線が浮かんできて…
いつか作ってみたいと思っていた「折り紙でペリアンチェア」を実践してみました。

ミニチュアのペリアンチェア、できた!

 

 

【参考文献】

五十殿利治・河田明久(2004)『クラシック モダン―1930年代日本の芸術』せりか書房
「シャルロット・ペリアンと日本」研究会(2011)『シャルロット・ペリアンと日本』鹿島出版会
西川栄明(2015)『増補改訂 名作椅子の由来図典』誠文堂新光社

 

 

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