1.つくる楽しさ
このシリーズでは、建築家さんご自身の日ごろの暮らし方やプライベートな関心事といったお話を通じて、その人となりを探ります。
今回登場してくださるのは、平野建築設計室・代表の平野毅さん。
好奇心が強く、チャレンジ精神旺盛な平野さんの姿勢は、 斬新さと懐かしさが同居する独創的な建築空間にも表れています。
紫陽花の花がきれいな梅雨の晴れ間、平野さんのもとを訪ね、お話を伺いました。
平野建築設計室
平野毅さん
2015.09.07
― はじめまして。
平野建築設計室のHPに載っている平野さんの姿から、明るくてお茶目なお人柄が伝わってきます。
今日はちょっと真面目なお話もお伺いしたいと思いますので、よろしくお願いします。
まず、平野さんがこの建築家という仕事を志したきかっけは何でしたか?
うーん。今まで特に建築家を目指したときというのはなくて…
流れに乗っていたら、たどり着いたという感覚が一番でしょうか。
― 具体的にどんなプロセスがあったのでしょう?
大学を選ぶときに「建築学科に行ってみたら?」という両親の一言で建築学科に進み、大学3年までは意匠の設計とは関係ないゼミにいたんです。
構造系で地震の振動解析など研究していました。
3年生のときに計画系の先生から「君、設計のセンスがあるよね」という言葉をかけてもらって、ちょっと興味が湧いたんです。
そこで、4年生のときに建築家の瀧光夫先生が教授として来られるということで、どうしてもそのゼミで学びたいと進路変更をしました。
― その瀧先生はどんな方だったんですか?
瀧先生は当時、日本の建築界で活躍されている建築家のお1人でした。
初めて設計を学ぶんだったら、設計の第一線で活躍されている人のもとでちゃんと学びたいと思いました。
タイミングに恵まれたと思います。僕はゼミの1期生でしたから。
― 実際に瀧先生のもとで学んでいかがでしたか?
瀧先生の影響は大きかったですよ。
瀧先生からいろんな設計事務所をまわった方がいいというアドバイスを受け、京都や大阪、岡山など…ほぼ学校には行かず、設計事務所ばかり行って図面を描いていました。
― 学生時代に設計事務所へ?
はい。倉敷市水島の駅前につくられた文化施設「水島サロン」の構造模型を作りに福山から電車で通ったことがあります。
― ほぉ、構造模型ですか。
50分の1スケールの大きさでした。畳2枚分でしょうか。
友達2人で通っていたんですが、水島臨海鉄道の終電が早いんです。
次の日が休みだったら、夜遅くまでやって朝帰るとか、とにかく大学4年から大学院2年までの3年間は、設計事務所に通って過ごしました。
おもしろかったですね。
― 設計尽くしの3年間! 何にそこまで惹かれたのでしょう?
うーん。つくる楽しさかな。単純につくるのがおもしろかったんだと思います。
僕は小学校の頃から模型(プラモデル)を作るのが好きだったんですよ。
でも、普通のプラモデルじゃ飽き足らずに、いろいろ改造していました。
人とは全然違うもの、オリジナルを作りたいと思っていたんで、モーターをつけたり、ないものをくっつけたりして、自分で好きなようにアレンジしていたんです。
― 当時のプラモデルというと車とか?
そうですね、あと戦闘機や戦艦、ガンプラ、お城など一通りすべて(笑)。
プラモデル屋に通っている時間も多かったですね。
雑誌を参考にして改造部分を作ったり、雑誌が買えなかったら、あるものを分解して構造を調べて、自分で考えて作ったりしていました。
よく釣りにも行っていたから、ルアーも自分で作ってましたよ。
田舎だからものがなかった。でも、逆にそれがよかったのかもしれません。
あるものをどうにか活用して、自分で作っていくしかなかったから。
― 与えられたものを使うというよりは、自分で作る、考えるということができた時代だったんですね。
ものがないからこそ、限られた中で…。
そう、建築設計も一緒なんです。
条件を与えられると、それが制限にもなるけど、それだけに特化しておもしろい物件ができる。
― なるほど…。
その後、平野さんは大学院を卒業して、古民家を再生して住宅を手掛ける「倉敷建築工房 大角雄三設計室」に入られますね。
どんないきさつで?
大学院2年のとき、バイト先の方に紹介していただきました。
その頃には自分で独立したいという想いが固まっていたので、卒業後は設計事務所を転々として経験を積もうと思っていたんです。
古民家で住宅設計をしているところがあるという話を伺って…ただ、僕のフィルターにひっかかったのは「住宅」の方でした。
― えっと、「古民家再生」ではなく?
はい(笑)。
学生時代はビルや大型施設、集合住宅など水平ラインしか描かない大きなハコモノの設計ばかりやっていたので、普通の人が暮らす住宅に興味があったんです。
それで、大角雄三さんに会ってお話を伺って…
― どうでしたか?
当時はやっぱりコンクリートの打ちっぱなしがお洒落とされた時代で、古民家にはあまり興味が湧きませんでした。
田舎に帰るとそういった家ばかりなので、僕の中では珍しくなくて(笑)。
ただ、大角さんの意欲的で前向きな姿勢にはとても共感できました。
― 働き始めての感想は?
はい、お世話になったら最後。もう、どっぷりはまってしまいました(笑)。
― それまでやってきた大型施設の設計と古民家再生…。戸惑いはなかったですか?
当初はまったくなかったですね。
ただ、6年目だったかな。自分が木造しか経験してなくて、鉄骨とか鉄筋コンクリートとか、自分が独立したときにまったく知らないのはまずいんじゃないかと不安になって大角さんに相談したことがあったんです。
大角さんは鉄骨も鉄筋コンクリートも手掛けられている方なので。
― どんなアドバイスがあったんでしょう。
「木造が一番難しいんだよ」という一言でした。
木造が一人前に出来たら、あとは当たり前にできる、と。
その一言でふっきれたんですが、実際に独立したとき、それが実感として分かりましたね。
― というと?
日本建築は木造がベースにあるんです。モノを作り上げていく基本のようなもの。
木造ができたら鉄骨も鉄筋コンクリートもできる。
木造はそれだけ難しいんだということがよく分かりました。
― 人生の節目で、ぽんっと背中を後押ししてくれるような出会いに導かれて「建築」の道を歩み始めた平野さん。
その流れに逆らうことなく、ワクワクしながら乗っていった平野さんの姿が、模型作りを楽しんでいる少年時代の姿と重なりました。
次回は独立してからのお話です。
つづく・・・4回連載 次回「2. さまざまな「居場所」のかたち」は9月14日UP予定です。
2015年6月 取材
文:松田祥子
平野建築設計室 岡山県倉敷市阿知3-21-26-202 Tel.086-441-8972 http://hi-h-h.com/